ジェームズ・モンローは、1817年から1825年まで在任した第5代アメリカ合衆国大統領である。
1758年にヴァージニア州ウェストモアランド郡で生まれ、1831年にニューヨークで死去した。
アメリカ独立戦争では大陸軍に所属し、その後バージニア州知事、上院議員を歴任した。
また、フランス公使、ジェームズ・マディソン大統領の下で国務長官と陸軍長官を務めた。
大統領としてのモンローは、「モンロー・ドクトリン(主義)」という外交政策で最もよく知られている。
1823年に発表されたこの政策は、ヨーロッパ諸国に対し、アメリカ大陸の新しく独立した国々の問題に干渉しないよう警告した。
また、スペインからフロリダを獲得し、ミズーリ妥協案を交渉して、領土内の奴隷制の問題を一時的に解決したのもモンローである。
ジェームズ・モンローの生涯
ジェームズ・モンローは1758年4月28日、バージニア州ウェストモアランド郡で生まれた。
父スペンス・モンローは農園主兼大工、母エリザベス・ジョーンズ・モンローは専業主婦であった。
モンローは5人兄弟の2番目で、農家で育った。
幼少期は母親と家庭教師から限られた範囲での教育しか受けていない。
11歳になると、キャンベル・タウン・アカデミーで学び始め、より正式な教育を受けた。
この時期にラテン語や数学などを習得し、他の生徒たちよりも学習能力において秀でていた。
1774年、16歳になったモンローは家を出て、バージニア州ウィリアムズバーグにあるウィリアム・アンド・メアリー大学に入学する。
しかし、1775年に独立戦争が勃発し、モンローの学業は中断されることになった。
独立戦争に従軍
ジェームズ・モンローは、アメリカ独立戦争中、大陸軍に所属していた。
モンローは何度も負傷し、トレントンの戦いでは肩にひどい傷を負った。
また、1777年から78年にかけての厳冬期にバレー・フォージで偵察中に重度の凍傷に見舞われた。
このように、モンローは戦争中に負傷するほど勇敢に戦い、アメリカの勝利に貢献した。
彼は独立戦争で戦ったことがある、最後の大統領でもあった。
結婚
モンローは、1786年2月16日にエリザベス・コートライトと結婚した。
二人の間には、エリザ、ジェームズ、マリアの三人の子供が生まれた。
イライザとマリアは成人まで生き延びたが、ジェイムズは幼少時に亡くなった。
マリアは後に、始めてホワイトハウスで結婚式を行った女性になった。
エリザベスは夫の政治的キャリアを強力に支援し、しばしば外交使節団に同行した。
夫妻は強固な結婚生活を送り、生涯を通じてお互いを献身的に支えあった。
バージニア議員時代
モンローは1783年から1786年までバージニア州の代議員を務め、その間、故郷の利益を強く擁護していた。
彼は、バージニア州の経済・社会状況の改善策を支持し、連邦政府との関係において同州の立場を強化することに努めた。
また、「宗教の自由に関するバージニア州法」の起草と成立に重要な役割を果たし、宗教の自由が米国の基本的権利であることを確立するのに貢献した。
さらに、モンローは新連邦政府と憲法の強力な支持者であった。
上院議員時代
1790年から1794年まで、モンローはバージニア州の代表として合衆国上院に在籍した。
この時期、モンローはジョージ・ワシントン大統領の政策を強力に支持し、国立銀行の設立やウィスキーの反乱を鎮圧するための軍隊の起用を行った。
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