駐フランス大使時代
モンローは、1794年に駐フランス大使を務めた。
モンローは、フランス政府が拘束していたアメリカ人人質の解放につながる交渉で重要な役割を果たした。
この時期は革命後ルイ16世の処刑に反対した人物などが、フランスにとらわれていたのである。
モンローはフランス革命を支持し、政府との関係を改善しようとしたが、大統領であるワシントンの方針は異なっていた。
このため、モンローはやがてワシントンによって解任されてしまう。
その後、モンローはバージニアに戻って弁護士としての活動を行った。
バージニア州知事時代
モンローは1799年から1802年までバージニア州知事を務めた。特に、貿易や通商を円滑にするための道路や運河の建設は、彼の主要な優先事項の一つであった。
また、学校やアカデミーの設立を支援し、州の公教育制度の改善にも努めた。
さらに、多額の公的債務を抱える州の財政問題にも取り組み、州軍の規模縮小や政府支出の削減など、数々の経費削減策を実施した。
また、モンローは州の権利を強く支持しており、知事時代には連邦権力の拡大に反対した。
また、1798年に成立した、移民の権利を制限し、言論の自由を制限する連邦法である外国人法および扇動法にも反対であった。
モンローのバージニア州知事としての在任期間は、州の経済とインフラの改善に努め、州の権利と個人の自由を尊重したことが特徴的であった。
閣僚時代
モンローは、大統領になる前に連邦政府でいくつかの役職に就いていた。
その中でも特に注目すべきは、閣僚としての地位である。
1811年から1817年まで、ジェームズ・マディソン大統領のもとで国務長官を務めた。
1812年の戦争を終結させたゲント条約の交渉に尽力した。
また同時に、1814年から1815年まで、ジェームズ・マディソン大統領のもとで陸軍長官を務めた。
1814年のイギリス軍の侵攻に対し、ワシントンD.C.の防衛を組織する上で重要な役割を果たしている。
全体として、ジェームズ・モンローは閣僚としての経験、特に陸軍長官と国務長官としての経験が、合衆国大統領になるために必要な経験を積むのに役立つことになった。
大統領時代
モンローは、1817年から1825年まで2期にわたり、第5代アメリカ合衆国大統領を務めた。
大統領在任中、彼は国内政策と外交政策を含むいくつかの重要な問題に焦点を当てた。
モンロー・ドクトリンは、1823年に発表されたアメリカの政策で、ヨーロッパ諸国がアメリカ大陸の政治に介入することは、アメリカに対する潜在的な敵対行為と見なすというものであった。
このドクトリンにより、アメリカは南北アメリカ大陸における主要なプレーヤーとしての地位を確立し、長年にわたってアメリカの外交政策の礎となった。
また、モンローは大統領在任中、国家経済の改善にも努めた。
関税法に署名し、輸入品に関税を課してアメリカの産業を保護した。
また、貿易や通商を促進するために、道路や運河などの交通インフラの整備を支援した。
モンローの大統領時代は「善き感情の時代」とも呼ばれ、政治的緊張を緩和し、アメリカ国民の結束を高めることに努めた。
政党の影響力を弱め、各地域の官僚を内閣に登用することでこれを実現した。
フロリダの獲得
モンローは、スペインからフロリダを獲得するために重要な役割を果たした。
1819年、アメリカとスペインは、国務長官ジョン・クインシー・アダムスとスペイン公使ルイス・デ・オニスの交渉により、大陸横断条約とも呼ばれるアダムス・オニス条約を締結した。
この条約はアメリカ合衆国とスペイン領フロリダの境界を定義し、サビン川をアメリカ合衆国とスペイン領テキサスの境界とした。
フロリダをアメリカに割譲する代わりに、アメリカはアメリカ市民によるスペインに対する請求権500万ドルを引き受け、アメリカによるテキサスに対する請求権を放棄することに同意した。
この条約は1821年2月22日、合衆国上院で批准された。
この条約はまた、アメリカとスペイン領の東フロリダと西フロリダの境界を定めた。
この境界は、ペルディド川の流れに沿って、31度線、アパラチコーラ川を通るものであった。
フロリダをアメリカに割譲したことで、両国間の国境紛争が解決され、アメリカはアメリカの商業と入植の拡大に欠かせない戦略的地域を支配できるようになった。
また、スペインが支援するアメリカ先住民がこの地域のアメリカ人入植地を襲うという脅威を取り除く役割も果たした。
モンローはスペインからのフロリダ獲得に重要な役割を果たし、国境紛争を解決し、アメリカ大陸におけるアメリカの領土と影響力を拡大するのに役立ったのである。
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