大統領退任後
1825年に大統領職を退いた後、ジェームズ・モンローはバージニア州オークヒルの邸宅に隠棲した。
彼は、財産の管理や様々な市民活動、政治活動に多くの時間を費やした。
モンローは大統領職を退いた後、財政難に陥った。
彼の地所には多額の借金があり、土地の多くを売却しなければならなかった。
また、家計のやりくりに苦労し、友人や家族の寛大な支援に頼らざるを得なかった。
1825年にはウィリアム・アンド・メアリー大学の学長にも任命されたが、この職務は長くは続かなかった。
経済的に苦境に立たされながらも、モンローは公的な場で積極的に活動し、政治家として、またホワイトハウスの後継者たちのアドバイザーとして、しばしばその役割を求められるようになった。
1824年の大統領選挙では、友人であり弟子でもあったジョン・クインシー・アダムスの立候補を支援するなど、国政への関与も続けていた。
1829年、モンローの健康は衰え始め、結核をはじめとするさまざまな病気に見舞われた。
1831年7月4日、バージニア州オークヒルの邸宅で死去した。
7月4日に亡くなった大統領は、トーマス・ジェファーソン、ジョン・アダムスに続き3人目であった。
大統領職を退いた後のジェームズ・モンローの人生は、全体として財政難に見舞われ、生活費を稼ぐのに苦労した。
にもかかわらず、彼は公職に就き、1831年に亡くなるまで、国政に積極的に関与し続けた。
まとめ モンローの事績
ジェームズ・モンローは、第5代アメリカ合衆国大統領として、2期にわたって数々の偉業を成し遂げた。
モンロー・ドクトリン
モンローの最も大きな功績は、「モンロー・ドクトリン」の制定である。
このドクトリンは、アメリカ大陸で新たに独立した国々に干渉しないようヨーロッパ諸国に警告するアメリカの政策声明であり、西半球の支配国としてのアメリカの地位を確立した。
ミズーリ妥協案
大統領時代、モンローはミズーリ妥協案の成立に重要な役割を果たし、西部領土への奴隷制の拡大をめぐる激しい論争を解決に導いた。
フロリダ州の獲得
モンローは、1819年にアダムズ=オニス条約を交渉し、スペインからフロリダを獲得する上で重要な役割を果たした。
この条約は、アメリカ合衆国とスペイン領フロリダの境界を定め、両国間の国境紛争を解決するのに役立った。
エリー運河
モンローは大統領在任中、五大湖とハドソン川を結ぶエリー運河の建設も支援し、西部の州を貿易と通商のために開放した。
「好感の時代」
政治的な対立が比較的少なく、経済も好調であったことから、モンローの大統領時代は「好感の時代」とも呼ばれる。
また、「モンローの大統領」は、ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、ジェームズ・マディソン、ジェームズ・モンローと4代続いたバージニア出身の大統領による「バージニア王朝」の最後の大統領と見なされている。
ジェームズ・モンローは、大統領として、また国務長官として、アメリカの外交政策や領土拡張、重要な政治問題の解決に重要な役割を果たした。
彼の大統領職は繁栄と統一、「好感の時代」、「バージニア王朝」に特徴付けられる。